vol.43 『ペータースタジオ』伊島 薫

元住吉、福生、原宿、西麻布、そして目黒

都から東京に出て来たのが1972年。東京と言ってもアパートは川崎市元住吉。学校は横浜市、日吉にある「東京総合写真専門学校」。その学校の二年目に中嶋興さんというビデオアーチストのゼミを取ったことから、まだその当時ビデオが今のように誰でも扱える時代ではなかった時代に、いろんなアーチストにビデオ作品を創ってもらうというプロジェクトの一環で、ペーター佐藤さんのところに派遣されたことから原宿に通うことになった。

もともと、ドキュメンタリー写真を目指していたことからその学校を選んだくらいだから、ファッションなんて興味がなかったというか、オシャレな世界にはまったくと言っていいほど縁がなかった僕には、原宿という街はただただ眩しいだけで、気後れするばかりだった。セントラルアパートそばの「レオン」なんて、そこに入ることなど畏れ多くてできないばかりか、前を通る時に中を覗くことさえはばかられるほどの気の弱さを持ち合わせた田舎者丸出しの19歳であった。

の頃、僕は川崎の元住吉からヒッピーのたむろする福生に学校の仲間と一緒に引っ越し、「ウェストロードプルースバンド」のメンバーや三上寛などが出入りする怪しげな「長屋」と呼ばれる米軍ハウスの住人になっていた。

「anan」の挿絵やユーミンのレコードジャケットのイラストなどで一世を風靡していたペーター佐藤さんのこともまったく知らず、同じくエアブラシを使ったイラストでパルコの広告を手がけていた山口はるみさんと混同して、奥さんのお千賀さんに笑われてしまうほどの世間知らずだった僕を、なぜかペーターは気に入ってくれて、その翌年アメリカに行くことになった時には、ニューヨークに住んでいる友達を紹介してくれたし、帰国後はペーターのイラストをアーカイブするための複写の仕事をする代わりにペーターの仕事場である「ペータースタジオ」を自由に使わせてもらえるという恩恵にあずかり、京都から出て来た田舎者は、いつの間にか東京のファッションの中心、原宿に片足を置くにわか住民となったのである。

の頃の「ペースタ」(「ペータースタジオ」のことを僕たちはこう呼んでいた)には、パリ帰りのファッションフォトグラファー小暮徹さん、スタイリストの佐藤チカ、装苑でイラストとエッセイを連載していた中西俊夫、グラフィックデザイナーの立花肇(立花ハジメ)、得体の知れない自称スーパーエディターの秋山道男さんなどが出入りし、みんな僕にはよくわからないオシャレな話で盛り上がっていた。
僕は、バイトをしながらペーターの作品の複写をする以外これといった仕事をしていたわけでもなかったくせに、たまたま人から借りていたクルマを持っていたことから、その頃すでにスタイリストとして売れっ子だった佐藤チカの貸し出しや返却の手伝いに駆り出され、アシスタントよろしくアッシーのようなことをさせられていた。
さらに、立花肇、佐藤チカ、中西俊夫などが中心となって始めたパーティバンド、「プラスチックス」が当時渋谷にあった「屋根裏」というライブハウスや原宿のシネマクラブ、新宿の「ツバキハウス」などでライブをやる度に、記録用の写真も撮らされていた。

そんなプラスチックスも次第に有名になり、レコードデビューすることになった。チカ、トシ、ハジメ以外のメンバーは、本業がおろそかになってはたまらないと脱退し、替わりが必要だというので、僕にもリズムボックス担当のメンバーにならないかと声がかかった。「ボタン押すだけでいいから大丈夫だよ」と言われたが、カメラマンになるという目標があるうえ、プラスチックスが有名になるにつれ、ライブをやる度に撮っていた写真が音楽雑誌に使われたり、他のバンドからも声がかかってレコードジャケットの仕事に繋ったりと、徐々に写真の仕事も増えて来ていた僕には、そんな将来性の感じられない仕事に賭けるだけの勇気が持てず、結局断った。

カトシと仲の良かった「MILK」のひとみさんに頼まれてコレクションの写真を撮ったのが、今にして思えば僕がファッションっぽい写真を撮る初めての経験だったかも知れない。ひとみさんは僕らの中では結構年長であったにもかかわらず、人一倍ポップで、元気で、エネルギッシュな存在で、毎日のように朝から晩まで働き、その上夜中までディスコやクラブに出没して遊びまくっていて、まるで一瞬たりとも休むと死んでしまうのではないかというくらい、常にしゃべりまくり、動きまくっていた。
そんなひとみさんには、ヘアメイクの野村真一さんを紹介してもらったり、当時憧れの雑誌だった「流行通信」のファッションページの写真を任せてもらったことなどから、ファッション雑誌の仕事が次々と舞い込んでくるようになった。
もともと、ファッションに疎くて、「ペースタ」に集まるファッションピープルには常に置いてきぼりにされていた僕は、ともかくカッコよくて目立つ写真を撮るんだと意気込んで、まだ世間では知られていないビデオの知識を活かした実験的な試みを日夜繰り返していた。

どなく、秋山道男さんが事務所を立ち上げるというので、イラストレーターの横山忠正、コピーライターの林真理子、スタイリストの中村のん、そして僕に声がかかり、今度は秋山道男さんの「秋山計画」に間借りすることになる。秋山さんは、若松プロで助監督をやったり、ピンク映画に俳優として出演したり、テキ屋をやっていたり、アングラ劇団に出入りしていたりと、ともかく得体の知れない人だった。思えばペーターもイラストレーターになる前は「東京キッドブラザース」で役者をやりながら美術も担当し、ニューヨーク公演にも参加していたという経歴の持ち主。アングラと原宿のカルチャーシーンには、なにか深いつながりでもあったのだろうか。今でも謎である。

「秋山計画」時代には、横山忠正とフリーペーパー「SALE」を創刊。広告だけで構成されている雑誌なので、広告費を印刷代にすれば出版できるというので、仕事がなくて金がなくても自分で広告のコンテンツを撮影すれば自分の撮った写真が印刷物になるというだけで満足できたのである。

林真理子がコピーライターとして売れ出しスペースが必要だというので「秋山計画」を追い出された僕は、中村のんちゃんの住んでいた目黒のパールマンションに空きが出たと聞いてそこに転居する。徐々にファッション雑誌の仕事が増えてきていた僕は、「SMSレコード」を辞めてフリーになるという安齋肇を誘い、西麻布に事務所を借りた。それが当時一世を風靡していた「レッドシューズ」の入っていたビルの一室だった。

たった二号で放り出した「SALE」は、「WXY」をやっていた大類信さんにバトンタッチし、西麻布の事務所「コミックス」(漫画が好きだった安齋肇と二人でやる事務所ということで、CO-MIX)では、イギリスのテキスタイルデザインなどを日本のファッションブランドに紹介していた式田純、イラストレーターのミック板谷(ミック・イタヤ)と共に、その頃ロンドンで話題になっていたカセットマガジンを真似て、「TRA」というカセットマガジンを創刊。「TRA」とはARTの逆さ読みで、自分たちのような世間で陽の目を見ないアーチストに光を当てて、世に送り出そうという意味が込められていた。

「TRA」の創刊号は立花肇の「H」、第2号は「メロン」と、メインコンテンツは結局原宿時代のメンバーが中心だったが、「ゴンチチ」「サロンミュージック」「ミュートビート」「スポイル」「ピンク」「ワールドスタンダード」「ヤン富田」「ショコラータ」など、数々の伝説のミュージシャンやバンドを輩出したし、平野威馬雄のインタビューや岡本太郎と大屋政子の対談もあれば、今では笑点でおなじみの、まだ真打ちになったばかりの三遊亭小遊三さんの落語など、当時一般的には脚光を浴びてはいないが、我々が面白いと思った人たちにフォーカスしたコンテンツに徹した内容は、今見ても面白いメディアであったと自負している。

を同じくして、桑原茂一さんと石原智一さんが「ペースタ」のそばでオープンし「メロン」や「ミュービート」「ショコラータ」などがライブデビューした伝説のクラブ「ピテカントロプス・エレクトス」とカセットマガジン「TRA」は、二年ほどの活動期間を経てほぼ同時にその幕を閉じた。そして、ピテカンの奥にあったレストランの5メートルの天井高に合わせ、8X10のポラロイドを214枚(フランスからアメリカに輸送した時に分割した荷物の個数)組み合わせて製作した自由の女神の作品も、「ピテカン」と共に消滅したのだった。

今にして思えば、当時まだ二十代だった僕が10年にも満たない短い期間に経験したことは、まだまだ語り尽くせないほどたくさんありますが「いやあ、楽しかったなぁ〜」という思い出話でございました。


〜福生で撮影した茅野裕城子さん〜

軽井沢で出会った茅野裕城子さんに声をかけて、福生でモデルになってもらった。
京都からでてきたばかりの僕を都会っ子の青学生の茅野さんは、田舎者だと思っているんだろうなーと思いながらの撮影だった。

福生にて筆者

ペーター佐藤が描いたユーミンのアルバム「コバルトアワー」の原画

プラスチックスの初期メンバー

筆者と佐藤チカ

藤原ヒロシと佐藤チカ、ツバキハウス(ディスコ)にて

ショコラータ

ミュートビート

中西俊夫のバンド、メロン。原宿のピテカントロプス・エレクトス(日本初のクラブ)にて

「流行通信」で撮影した大川ひとみさんの「OBSCURE DESIRE OF BOURGEOISIE」のページ。私が撮影した最初のファッションフォト。

ピテカントロプス・エレクトスの壁面にあった高さ5メートルの「自由の女神」

筆者 プロフィール

伊島 薫 (写真家)

1980年代、様々なミュージシャンの撮影からスタートし、数多くのファッション誌の仕事を経て、1994年伝説とも言われる実験的なファッション誌「ジャップ」を創刊。
死体にハイブランドを着せるという「死体のある風景」シリーズが高い評価を受け、以降ドイツを中心に欧米各地で個展が開催されている。

現在、京都のギャラリー「京都場」http://kyoto-ba.jp/ にて個展「あなたは美しい」開催中(6月11日まで)

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