vol.49『原宿セントラルアパート671号室』石川武志

には原宿という町は特別な町である。1970年代当時、私は神宮前二丁目に住んでいたのだが、写真学校が御茶ノ水にあり、千駄ヶ谷駅も使えるし原宿でも遊べるという単純な理由だった。その時、後に原宿に住んでいた事が大きく私の運命を変えるようなことになるとは想像もしなかった。

1971年9月、ある日の夕方、セントラルアパートのレオンにコーヒーでも飲みに行こうと散歩に出た。今のラフォーレ、当時の教会の前で、ユージンスミスに似た人が日用品の買い物していた。ちょうど一週間前に新宿小田急デパートでユージンスミスの写真展「真実こそ我が友」を観たばかりで顔を知ってはいたが、なぜここに?確信はなかった。勇気を出して聞いてみると、「そうだ、ユージンスミスだ」という。でもそれ以上に用事もないので「写真展素晴らしかったです」と答え、「でもどうして此処に?」と話しかけると「このセントラルアパートに住んでいるんだよ、ところで君は写真をやっているのかね」と答えてきた。そうだと答えると、「私はこれからミナマタを撮るんだ」と言う。水俣病のミナマタですか。予期しない答えだった。そして「よかったら部屋に来ないか」という。

 不思議な気分のまま付いていくと、671号室の部屋には沢山のダンボール箱があり水俣に送るパッキング中だった。奥さんのアイリーンさんを紹介され、私と同じ年の21歳にまた驚いた。
「この荷物を水俣市に送りたいのだがどうすればいいのか」と尋ねて来た。
「それなら国鉄の渋谷駅から送りましょう。明日からお手伝いに来ますよ」ということで、世界的に有名な写真家のお手伝いが始まったのだ。その時は水俣に行くとも、アシスタントになろうなどとも夢にも思わなかったのに。

宿 セントラルアパート671号室。
なぜユージンスミスが原宿セントラルアパートだったのか、なぜミナマタの撮影だったのか。
此処でキーパーソンとなるのがユージンスミスの写真展の興行元で出版社「邑元舎」代表である元村和彦氏だ。彼はユージンスミスの写真展が日本中を巡回するにあたり、その期間の一年間をユージンスミスの住居として、多くの写真家の事務所やナショナルフォートがあるセントラルアパートを提供した。元村氏だけでは負担なので、当時フリーになったばかりの浅井慎平さんと部屋をシェアーすることになった。一年後、ユージンスミスは元村氏との契約も終わり、この部屋を撤退し水俣に拠点を移すことになる。浅井さんはその後もこの671号室を借り続けることになる。

はなぜユージンスミスが「ミナマタ」なのか、これも全ては元村氏の存在だ。
話をユージンスミスが日本に来る前年の1970年に戻そう。出版社「邑元舎」を設立した元村はロバートフランクの写真集を出したかった。しかし、なんのコネもない元村はユージンスミスならロバートフランクを知っているかもしれない。1961年に日立を取材に来た時のアシスタントをした森永純はユージンスミスを知っているだろう。なんの面識もない元村は同郷長崎県出身というだけで「ユージンスミスはロバートフランクを知っているだろうか、もし知っているなら紹介してほしい」と森永純に会いに行く。1970年、渡米した元村は、ユージンスミスと当時同居し始めたばかりのアイリーンと共にニューヨクのロバートフランク宅を訪れる。突然の訪問者にロバートフランクも戸惑ったと思うが、誠意が通じたのか、元村は写真集『The Lines Of My Hand』(邦題『私の手の詩』)の日本語版の出版権を手に入れることになる。その年、たまたまユージンスミスはニューヨークで大回顧展「LET TRUTH BE THE PREJUDICE 」を開いていた。

 話のついでにユージンスミスは元村に「この写真展を日本でできないか」と聞いた。どこまで本気だった分からない、出版社を立ち上げたとはいえ何の実績もない元村氏にだ。ロバートフランクの件で世話になったばかりの元村は「検討してみます」と答えた。そして翌年の1971年、現実に朝日新聞主催で小田急デパートで写真展「LET TRUTH BE THE PREJUDICE -真実こそ我が友」が開催されることになる。

 写真展に合わせ日本に来るにあたり、当初ユージンスミスは日本の漁村を撮りたいと考えていた。元村に相談すると、「漁村といえば九州の漁村、水俣市がいま大変なことになっている」と水俣のことを教えた。ユージンスミスには聞き捨てにできない話であった。ユージンスミスにミナマタを仕掛けたのは元村と言っていい。結局、ニューヨークのアパートを払い、最後の仕事として賭けて来日した「ミナマタ」だったのだ。そして写真展「真実こそ我が友」の期間中に水俣に行き、部屋を決めてきたばかりのタイミングで、私と偶然に会ったのだ。今から思えば彼もどこかで日本人アシスタントを必要していたのかもしれない。最初は水俣への荷物の配送の手伝いが、暗室の制作、暗室ができるとプリント、そしていつの間にか三年もアシスタントをすることになる。

ントラルアパート671号室の話に戻そう。
ユージンスミスに部屋を提供している元村は、自宅は三鷹にあるものの、事務所は特にない。自分が部屋代を払っていることもあり、ロバートフランクの写真集の編集作業を671号室で行っていた。ロバートフランクのプリントは裏に鉛筆でキャプションが書かれていて、それをアイリーンがユージンスミスのタイプで打ち込んでいる。写真集を見る機会があれば見て欲しい。それらの編集や文章はアイリーンがこの部屋で打ち込んだものだ。何の繋がりもなさそうなユージンスミスの「MINAMATA」とロバートフランクの写真集「The Lines Of My Hand (邦題『私の手の詩」)今となっては伝説的と言っていい二つの写真集がこのセントラルアパート671号室で同時に進行していたのである。それを知っている人はあまりいないと思う。それらを同時に見ていた私には夢のような時代だった。
  


セントラルアパート671号室のユージン・スミスとアイリーン・スミス


MINAMATA | W.Eugene Smith and Aileen M.Smith
『水俣』写真集:W.ユージン スミス,アイリーン・M. スミス (著)

ロバート・フランク 写真集

筆者 プロフィール

石川武志(写真家)

1950年生まれ。
1971年東京写真専門学院(現 東京ビジュアルアーツ)卒業。
71~74年ユージン・スミスの水俣プロジェクトでアシスタントを務める。75年フリーランスのフォトグラファーとしてスタート。80年インドのトランスジェンダー社会「ヒジュラ」の取材を始める。
 写真展に、82年「ヒジュラ」(ミノルタギャラリー)、2008年「インド第三の性―ヒジュラ」(外国人特派員協会)、11年「ガンガー巡礼」(銀座ニコンサロン)、12年「水俣ノート 1971~2012」(銀座ニコンサロン) 2018年 プレースMで「Naked Cty Baranasi」2018年 アメリカの Etherton Gallery でステーブマッカリーと私の共同開催写真展「The Unguarded Momen」などがある。
 写真集に「インド第三の性-ヒジュラ」(青弓社,1995年) 『アジアの奇祭』(青弓社1998年)「MINAMAT NOTE 1971~2012 私とユージンスミスと水俣」(千倉書房 2012年)などがある

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