vol.46『原宿の洋食屋「ウィーンボンボン」の “爆弾三銃士” 』松木 直也

谷区神南にある桑沢デザイン研究所に通ったのは1975年(昭和50年)4月から1977年(昭和52年)3月で、当時僕は仙台から上京して大田区の南馬込のアパートに住んでいた。19歳から21歳のことで、75年に『Made in U.S.Aカタログ』(読売新聞社)が発売され、『POPEYE』(平凡出版社 現マガジンハウス) は翌76年に創刊になった。

 IVYファッションに興味を持っていた僕は、それまで雑誌といえば『MEN’S CLUB』が主役だったが、『Made in U.S.Aカタログ』、『POPEYE』は、その座を奪い、自身の行動範囲にも変化をもたらした。それまでIVYファッションの視察というか、そういった場所は新宿のアドホックビルにあった「ISEYA」、銀座の「テイジンメンズショップ」だった。

 休みの日はこういったところをぶらぶらするのが常で、例えば銀座の「テイメン」なら2階の喫茶店に入り、新宿なら「三峰」なんかも一通り見て、アドホックの前にあったIVY少年・少女の溜まり場の「TOPS」にも入り、ファッション的に同類な人々を眺めていた。

 しかし、『Made in U.S.Aカタログ』、『POPEYE』が出てからは、一転して、上野アメ横通いが続いた。雑誌に出ているような商品を見つけるためにとにかく隅から隅まで見てまわった。(当時はリーバイスの501や502をバナナのたたき売りのように大きな平台に山積みにして売っていた)

がて、行動範囲は広くなり下北沢(当時は小さなアメ横みたいなところがあった)や吉祥寺、吉祥寺ではロック喫茶「赤毛とそばかす」に入りひとときを過ごした。

 また、桑沢の放課後は、たいがい友人とファイヤー通りの「文化屋雑貨店」をのぞき、そのまま原宿へ歩き、東郷神社の近くにあった喫茶店に入ってコーヒーを飲み、その後、千駄ヶ谷トンネルをくぐりビクターのスタジオを通過して外苑西通りを南青山3丁目まで歩く。途中、螺旋階段が目印だった「ハリウッドランチマーケット」で独特のお香の匂いのなかでアメリカの古着を手に取り、それから、「BIGI」を窓越しに覗いた。(当時TVドラマ『前略おふくろ様』(日本テレビ)に主演していた萩原健一は劇中BIGIの厚手のシャツを着ていた)

ういった街歩きで東京の生活に慣れていったが、もう一つ、池波正太郎の随筆『散歩のとき何かを食べたくなって』(平凡社77年)についても話したい。愛読者も多いと思うが、映画の帰りは銀座のどこどこの洋食屋に立ち寄り、こんな料理を食べるといった内容だ。僕は、本のタイトルに惹かれ、文章に影響を受け、さっそく似たような気分を体験しようと行動に移した、例えば新宿へ行くと「伊勢丹」の1階にあったレストランで白ワインとスモークサーモンや生牡蠣など食べて自分なりに背伸びしていた。

 そして原宿だと「ウィーンボンボン」。神宮前交差点の近くにあった小さな洋食屋で、おじさんが一人でやっている店だった。何度も店の前を通り、どんな店なのか一度は入ってみたいと思い、ある日のランチに行ってみた。7~8人ぐらいの席、それもカウンターだけで店内は決してきれいとはいえなかったが、ふわっとデミグラスソースのいい匂いがした。僕らの世代はデミグラスソースにはとてもとても弱い。迷わず頼んだのは“煮込みハンバーグ”だったとずっと思っていたのだが、後で調べてみたら“爆弾三銃士”というメニュー名のミンチ牛肉で、ゆでタマゴを包んで団子状にしたものをデミグラスソースで煮込んだものだった。取っ手がついた鉄の小さなフライパンに盛られ、熱々でライスがついて確か650円だった。

 当時、渋谷「壁の穴」で初めてタラコスパゲティを食べた時、そのおいしさに驚いたが、「ウィーンボンボン」の爆弾三銃士も普通ではなかった。デミグラスソースがかかっているのではなくデミグラスソースのなかにミンチ牛肉が浮いているというか、ソースをスープのように味わえた。そしてこれがライスによく合うのだ。すぐに原宿へ行くたびに立ち寄るようになるのだが、料理をつくるおじさんはコックコートを着ているわけではなく、おしゃれをしているわけでもなく、一人で厨房と客席を行ったり来たり、それどころじゃないという感じだった。客もおじさんのそれどころじゃないを理解しており、じっと料理を待っていた。

しをしたことはなかったが、このことを書くにあたって、ネットを見ていたら、この店で若い時にアルバイトをしていたという男性のブログを見つけた。その文章によるとおじさんの名前は山口栄一さんといって、東京のドイツ大使館とオーストリア大使館で15年もコックの腕をふるっていたという。また、『スープの本』(潮文社1978)といった著作も出していた。

 山口さんが大使館でコックをしていた頃、西欧料理人の世界では、街場のレストランよりも有名ホテルの西洋料理レストランで仕事をすることが花形だった。帝国ホテルの村上信夫料理長、ホテルオークラの小野正吉料理長らが代表的なスターでテレビの料理番組にもよく出演していた。

 ここからは想像なのだが、山口さんが大使館でコックをしていたキャリアなら、大きなホテルからも引く手あまただったのではないかと思う。当時は本格的な西洋料理のコックさんは今より圧倒的に少ない。キャリアを活かしてホテルの料理長を目指す道もあったはずだ。その方が街場のレストランよりずっと安定している。だからこそ、こうも思える、きっと原宿というクリエイティブな若者が集まる街で、自分の創作料理を庶民的な料金で提供しようとしたのではないだろうか?と。

「ウィーンボンボン」は80年代初めに閉店したらしい。こういうことはオンタイムではなく、何かの拍子にあの店が閉めたことを人づてに知ることが多い。六本木の「ニコラス」が閉めたときもそうだった。するとそのときになぜか、そこで食べた料理が無性に食べたくなる。そのときは横田の本店までアンチョビピザを食べに行った。

 「ウィーンボンボン」は覚えている方々も多いと思う。美味しかったものは何年経っても記憶の彼方でうずくときがある。また、店を切り盛りしていた山口さんの姿もぼんやりと浮かんでくる。あの店に染み込んでいたものは何だったんだろう。


1978年の筆者


『散歩のとき何かを食べたくなって』(平凡社1977年年発売)
池波正太郎の随筆

『スープの本』(潮文社1978年発売)
ウィーンボンボンオーナー山口栄一さん著作

– 『スープの本』書籍の内容 –
最後の写真は、中村のんさんが当時、山口栄一さんからいただいたサインです。

筆者 プロフィール

松木直也

文筆家。1955年生まれ。桑沢デザイン研究所卒。宮城大学大学院修士課程修了。79年より雑誌編集者・ライターとして『POPEYE』(マガジンハウス)に携わり、数多くのミュージシャンや音楽関係者への取材を行う。93年より村井邦彦氏へのインタビューを開始し、2016年『アルファの伝説 音楽家村井邦彦の時代』(河出書房新社)を上梓。著作に『ミクニの奇跡』(新潮社)、『加藤和彦・ラストメッセージ』(文藝春秋)など。

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