vol.47『オリンピアアネックス』糟谷 銑司

1972年の頃。東中神の米軍ハウスに大野と一緒に住んでいた(※大野真澄。1971年デビューのバンド「ガロ」のメンバー。通称・ボーカル。筆者とは小中一緒で、中学時代からの親友)。

このハウスの前の住民は黒人兵のマイケルで俺は会ったことがある。

 高田馬場から引っ越すとき、深水がどこかからトラックを借りてきてくれ、荷物を積み込むと大野と俺も荷台に乗り、12月の凍える五日市街道を都下立川の先まで走った(※深水龍作。「東京キッドブラザース」に所属していた弟の深水三章が同劇団を退団後、1975年に旗揚げしたロックンロールミュージカル集団「ミスタースリムカンパニー」を主宰、代表となる。大野真澄のセツモードセミナーの先輩)。

 あまりの寒さに五日市街道の途中の酒屋でトリスを手に入れ、二人でがぶ飲みしながら荷物にしがみつき、東中神の新しい家まで走った。

 荷物を運び込むと次の日は朝早いからと、大野は都内の友人宅に泊まると出かけて行き、引っ越しした初日の夜は一人でごった返す荷物のなかから引っ張り出した毛布に包まってソファーで寝た。

 夜半にドアを叩く音がする。誰だろうと起きて行きドアを開けると黒人の男が立っていて、男は自分はマイケルと名乗り、俺はセンジカスヤと名乗った。翌日、大家がさっそく顔を出し、1月分の家賃を取りに来た時、この家の前の住人は誰でしたかと聞くと、マイケルという黒人兵が住んでいたが先月ベトナムで戦死したと言われた。しばらく東中神で暮らした。

 大学生の俺はバイトのない日はピンクフロイドを大音響で聴きながら、フランスの決闘トリエルで一番ピストルの下手な奴が勝つ方法はあるかなどと数学の命題を一生懸命解いていた。大学の仲間もたまにやってきた。大野はガロが売れる前だったが、忙しそうに都内や地方に出かけて行っていた。レコーディングが終わったぞと、高橋幸宏と小原礼を連れてきたこともあった。

 隣の深水の家ではしょっちゅう麻雀をやっていて、ロックイベントプロデューサーの木村英樹さんや、向かいの家のよーちゃんやハウス仲間が面子で、たまに揃わないと学生の俺も卓に引っ張りだされた。

 1973年に「学生街の喫茶店」が大ヒットして、ここじゃ遠すぎると大野が都内に引っ越していき、残された俺もバイトに便利なようにと都内に引っ越して十二社のアパートに住み、飯田橋の佳作座や渋谷全線座、池袋文芸座や新宿西口ローヤルで映画ばかり見ていた。

1974年になると、大野に連れられて初めて原宿に出入りするようになった。昼に来ると表参道も人通りが少なく、新宿とも渋谷とも池袋ともまったく違った静かな街で、コープオリンピアで買ったバゲットを剥き出しで抱えた外国人が歩き、明治通りに教会があって、日本の街じゃないような大人っぽい雰囲気があった。

 1975年になると、代官山駅前の大野の東急アパートの部屋に猫の常富君と一緒に居候状態となって、毎晩のように原宿に出かけた(※猫。1971年に結成されたフォークグループ。吉田拓郎のバックバンドを務めた後、1972年にデビュー)。

 キングコング。山ちゃん。伴ちゃん。ヒロ。ビビアン。ラジオ。もみの木ハウス。一番行ったのが原宿のペニーレーンだった。マネージャーの安田BOSS。バーテンダーのめぐみ。チーフの杉本さん。店の連中とも馴染みになった。

 吉田拓郎。南こうせつ。正やん(※伊勢正三)。パンダさん(※山田パンダ)。クールスの舘ひろし。猫の常富君(※常富喜雄)。田口君(※田口清)。ムッシュ(※かまやつひろし)。ナベプロのマネージャーやソニーの宣伝マン。山本コータロー。森永博志。集英社平凡社の連中。ユイ、フォーライフのスタッフなどが毎晩のように酒を飲みに来ていた。その客の中のスターがユイ/フォーライフ両社の後藤社長であるが、客の誰からも社長と呼ばれていた(※後藤由多加。早稲田大学在学中の1971年にユイ音楽工房を設立。吉田拓郎、かぐや姫、長渕剛らを手がける傍ら、75年、井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等らとフォーライフレコードを設立)。

の頃、バイト先のノースウエストオリエント航空が倒産し、明日の食い扶持に困ったと大野に相談すると、パンダさんの奥さんの帽子屋のバイトがあると紹介してもらい、そこからパンダさんからマネージャーをやらないかと声がかかり、後藤さんに了解をもらい、あれよあれよという間にユイに入ることになり、1975年の9月、明治通りと表参道の交差点にあるオリンピアアネックスの4階の事務所、ユイ音楽工房に通うことになった。

 ユイはこの年1975年の8月2日〜3日の2日にまたいで、静岡県掛川市のつま恋多目的広場に5万人の大観衆を集め、日本初の野外オールナイトライブコンサートを成功させたばかりの時で、平均年齢26歳のこの会社が日本の若者文化を一手に引っ張っていた。ただ、まだ音楽事務所/プロダクションとしてのキャリアもノウハウも積み重なっていない時期で、全員が今まで誰もやっていないようなことをやっていた。あまり年の違わない先輩たちにおそるおそる尋ねた。

「マネージャーってなにをやるんですか」
「パンダさんのマネージャーになったのは君か。君の仕事はパンダさんを売ることだよ」
「どうやったら売れるんですか」
「それを考えるのがお前の仕事だろう」

 26、7歳の若者たちが吉田拓郎や南こうせつや伊勢正三や山本コータローやイルカや猫と一緒になって、自分たち独自の考え方で音楽活動を展開していた。作詞も作曲もレコーディングもコンサートもラジオ番組も。雑誌を発行している部門もあって、森永博志が25歳の若さで編集長をしていた(※森永博志。エディター、作家。のちに創刊当時の『POPEYE』『BRUTUS』『月刊PLAYBOY』で特集記事を担当)。全員忙しくて正直俺のことなんか構っている暇はなかったのだろうが、なんとまあ、俺を大人扱いしてくれる事務所だった。俺が思ったようにやっていいと言われたんだ。

 事務所に来て3日ほど経って後藤社長に挨拶をした。

「マネージャーという仕事は、そのアーティストの未来を語るんだ。でも未来が来た時、語った通りになっていなかったとしたら、マネージャーは嘘をついたことになる。その語った未来と、ならなかった今のギャップを埋めるのは、マネージャーの人としての誠意だよ」

れから43年。この言葉を1日も忘れることなく全ての仕事に全てのアーティストに向き合ってきた。成功も失敗も自分の人生を彩っている。

 原宿の交差点にあるコープオリンピアアネックスビルが取り壊されると聞いた。あのビルの中にあった無数の青春は空に帰るか。

 ただし、今でもペニーレーンのBOSS、常富さん、大野君と俺の4人は原宿俱楽部などと称し、互いの誕生日には集まってバースデーパーティーを開いているから、原宿青春真只中と言ってもいいかな。

(※)内は中村のん筆


1977年頃、原宿ペニーレーンで。
左から、筆者、安田BOSS、常富喜雄、大野真澄

神宮前交差点角のコープオリンピアアネックス。2018年現在、取り壊しを控えた当ビルは、1階部分を除いたすべての部屋が空室となっている。

筆者 プロフィール

糟谷銑司 かすやせんじ(音楽プロデューサー)

1949年生まれ。愛知県岡崎市出身。明治大学経済学部入学。在学中よりノースウエストオリエント航空でアルバイトをした後、1975年、株式会社ユイ音楽工房(現・ユイミュージック)に入社。77年、明治大学中退。ユイ音楽工房時代に手がけたアーティストに、山田パンダ、長渕剛、BOØWY。
1988年、布袋寅泰と共に、株式会社アイアールシートゥコーポレーションを設立し代表取締役に就任。会社名の「IRc2」は、「強烈な赤外線を発する2番目の天体」の意。手がけたアーティストに、布袋寅泰、COMPLEX、今井美樹、大野真澄など。

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