vol.38 『セントラルアパートに吹いていた西海岸の風』
白谷敏夫

が原宿のデザイン事務所に入った1973年は、マイケルジャクソンの “BEN” やポールサイモンの ”Kodachrome” がチャート入りし雑誌 ”宝島” が創刊された時代だった。

 美大の卒業を待たずに入社した ”HALO HALLO” というデザイン会社はセントラルアパートの中にあり、JUNの広告デザインをしていたデザイナーたちが始めた広告制作会社で、広告業界がおしゃれなテイストを求めだした時期ともあい、ファッション以外の仕事も多く制作し大きくなっていく最中で、このころ騒がれていた少人数でかっこいい広告を作る集団の中の一つだった。
当時セントラルアパートには多くのクリエイターが事務所を構え、駆け出しの自分にもすでに有名だった写真家たちとの仕事をする機会を得られ、操上和美、浅井慎平、糸井重里さんたちと広告を作っていた。仕事はしなかったが鋤田さん(鋤田正義)の事務所に遊びに行ったこともあった。2年後にイラストレイターの薙野たかひろもハローハローに入社してきた。

その頃青山の蕎麦屋の上に住んでいた僕は青山通りを毎朝バスで表参道まで行き、そこからスケートボードで表参道を下り出社していた。高校の頃から波乗りをしていたので陸での練習のつもりで始めたスケートボードは見たこともない危険な乗り物としておまわりさんに何度も静止させられ、そのことを自慢のように思っていた。

出社前そのまま下のレオンでいちごジャムの分厚いバターたっぷりのトーストと、お代わり自由のコーヒーを飲んだり、ちょっと時間が空くとレオンに行ってそこでの知り合いの人たちとだべっていた。ロンドンの話、カリフォルニアの話、南の島、当時そんな簡単に海外に出られる環境ではなかったので、雑誌以外に聞ける生の話は貴重で興奮した。何者かも知らずに聞いていた話が後で鋤田さんとデビットボウイの話だったり、イッセイさん(三宅一生)のショーの話だったり、海外ロケで見たこともない景色の写真を見せられたり。レオンは僕らアシスタントや新人のサークルみたいな場だったのかもしれない。

”HALO HALLO” で最先端の広告を作っていながら、波乗りにどっぷり浸かっていた僕は夜明け前に湘南で波乗りをし、そのまま濡れた髪で出社するような生活をしていた。海外からのサーフィン雑誌が普通に見られるようになりだしたのもこの頃で、次第にサーフィン写真に夢中になってき、76年に雑誌 ”POPEYE” が創刊された頃、僕は自分で波乗りの写真集をどうしても作りたくなり、当時アパートの5階にいた ”西海岸アドバタイジング” というプロダクションの森下茂男(現サーファージャーナル編集)に相談することになった、その頃アパートの駐車場だった吹き抜けはセントラルパークと呼ばれカフェになっていて、原宿も多くの人が集まる場所になってきていた。そこで森下から ”やめてうちに来れば” という軽い一言で僕は ”HALO HALLO” を退社し、当時愛読書だったカリフォルニアで作られていたサーファーのための雑誌 ”SURFER” 誌に写真集を作りたいから写真を貸して欲しいと無謀な手紙を書き、集めてきた写真で ”on the wave” という写真集を作った。作業中明治通り沿いにあった事務所から街が暗くなると出来立てのラフォーレの壁に借りてきた写真を映写して遊んだりもしてた。これが僕にとっての最初の写真集であり、多分世界でも初めてのサーフィン写真集だったと思う。

”ホットドッグプレス” や ”ポパイ” に西海岸カルチャーの情報を提供したり、後にボルトのプロサーファー津田明をアイコンにしたTVKテレビの ”ファンキートマト” の制作など ”西海岸アドバタイジング” は日本でのサーフィンカルチャーにとって重要なポジションを築いた。僕は78年に湘南で創刊された ”Surf Magazine” のアートディレクターとして茅ヶ崎に住まいを移し、湘南と原宿を行きする生活を始めた。
何時に出社してもいい適当な会社だったので、毎朝海に入ってから原宿に向かう生活だった。明治通りを挟んでアパートの5階の部屋ではサーフィンのトップブランドのほとんどの広告を作っていた。当時のサーファーはよく知っている ”BOLT” ”Town and Country” ”rash” など、グローバルな時代ではなかったので広告やカタログは全て日本で制作していた。それもあって西海岸の事務所やセントラルアパートの中庭の ”Cafe de Lopé” には世界中の有名なサーファーや波乗りの関係者が集まってきていた。ジェリー・ロペス、ショーン・トンプソン、マーク・リチャード、、、その頃が日本の波乗り文化の始まりだったんだろうと思う。サーファーが社会で嫌われなくなりビジネスも大きく拡大し、千駄ヶ谷の青年会館で行われるサーフィン映画にはサーファーガールと呼ばれるベルボトムのパンツに袖の小さなカリフォルニアTシャツ、プカシェル、ファラ・フォーセット・メジャース的な髪の毛の女の子たち。海から集まってくるサーファーは誰が一番可愛い子を連れてきたかを競い、見たこともない大きな波に悲鳴を上げ、映画の興奮のまま女の子を連れて翌朝海に戻っていく。
みんな楽しいことだけやってたかった。

代々木公園の歩行者天国にはカリフォルニアのスポーツ、フリスビーやスケートボードはもう普通に遊ばれていた。
だけど自分たちがやりたくてやってきていたものが、このころから逆に窮屈になって僕はパリに避難し、森下もハワイに出て行くことになった。

”西海岸アドバタイジング” は部屋を替わり建物が取り壊されるまでアパートにいたが、渋谷に引っ越し活動を終えてしまった。

最初の写真集を作ってから30年経って ”75-85Surfing Japan” というこのころの日本の波乗りの写真集を ”Bueno! Books” から出版しました。興味のある方はどうぞ。
http://buenobooks.shop.multilingualcart.com/goods_ja_jpy_17.html
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”On the wave”
最初のサーフィン写真集

”Surf Magazine” cover
湘南で作られていたサーフィン雑誌

”No Nuke”
”Surf Magazine” で製作された原発反対運動のステッカー

”Surf Magazineでの広告”

70年代当時の筆者「左 :原宿 表参道 セントラルアパート前」(撮影共に:達川清

筆者 プロフィール

白谷敏夫 Toshio Shiratani(アートディレクター)

1972年デザイン事務所 ”HALLO HALO” に入社。ファッション、飲料水、車などの広告制作に携わり、その後 ”西海岸アドバタイジング” に入社。ウエストコーストの文化を日本に紹介しながら、’78年よりサーフマガジンの初代アートディレクターとなり、’82年パリに移住。帰国後 ”FLY Communication” に参加、日本国憲法を新解釈した長野真、ネイティブアメリカンについての数多くの著者、元宝島編集長北山耕平との三人で自然のレッスン、アニー・リーボビッツ写真集、パルコカラーブックスなどを製作。
1985年NOMADEを設立し、広告、カレンダー、アートブックの制作を始める。東京都写真美術館、西武美術館、JAL、Be-PAL、家庭画報、PLANTAN銀座、BURBERRY、荒木経惟、森山大道写真集、などのアートディレクションとデザインを手がける。また、ボードカルチャーを主とした出版社 ”BUENO! BOOKS” や自社製作のムーンカレンダーなどを制作している。


写真集「70’HARAJUKU」(小学館)のアートディレクションも担当しました。
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