vol.1 『レオン』高橋 靖子

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分が息をしているこの球体にいくつかの「私の場所」があるのって、とても幸せなことです。
 私は仕事の関係上、まだ月が出ている早朝、高速に乗って都心を離れたり、あるいは深夜、同じ高速で家路に急いだりすることがあります。そういう流れる時間の中で、自分の拠点の町並み(おもに原宿から青山、千駄ヶ谷にかけての場所ですが)をほっとする気持で思い起こします。
 その気持で、時間軸をずーっとのばしてゆくと、その原点のひとつにぶつかりました。
 
60年代の後半。原宿の喫茶店レオン。
セントラルアパートの一角、表参道に向かったところにある、ガラス張りのごく普通の喫茶店。私はその店を自分の居間のように思ってました。朝8時にはもう開店していたので、厚切りのトーストとアメリカンをいただく。その時間のお客はごく普通のサラリーマンが多くて、みんなこの厚切りトーストを食べて、それぞれの場所に出かけてゆくのでした。
 それから少し経つと、セントラルアパートの住人や近所の仲間たちが現れます。

 レオンがカッコいいということはなかったけど、そこに集まる人たちがレオンを特別な場所にしてゆきました。
 山口はるみさん、伊丹十三さん(当時は一三さん)、浅井慎平さん、操上和美さん、鋤田正義さん、糸井重里さん・・・と挙げてゆけばきりがないけど、そういうプロフェッショナルな人たちと、まだ時代の予感だけでうごめいている若者たちが何の違和感もなく、混在していた場所でした。
 音楽的なことを言えば、レオンにはほぼ現れなかったけれど、階上のセントラルアパートには、小沢征爾さん、ピアニストの中村紘子さんがいました。
 京都からは、村八分のメンバーや、桑名正博さんが現れたし、加藤和彦さん、ジョー山中さん・・・etcがいました。

 ある日、静かにコーヒーを飲んでいた川久保玲さんが「私、洋服をやろうと思う」と一言いったのを覚えています。多分、1968年か69年のことでした。

はレオンでさまざまな人と出会ったけれど、時代そのものと出会った、という記憶がいくつかあります。

 1970年の春、レオンに、ビートルズの「Let it be」が流れていました。
 私は2回目のニューヨークから帰ってきたばかりで、この新曲をビレッジのいろんな所で聴いていました。その曲が流れるレオンに迎えられた時、「あ、世界はつながっている」と心底感じたのでした。
 それから間もなく、私はロンドンに行き、生まれて初めて、山本寛斎さんのファッションショーをプロデュースすることになります。
 71年、その私に、レオンで初めて話しかけてきた人が鋤田正義さんでした。お互い、3年ほど同じレオンで過ごしながら、口をきいたことはありませんでした。それほど広くない喫茶店の、私は道路側のガラス張りの席。鋤田さんはいちばん奥の席でした。
 私は鋤田さんの話を聞き、彼が望むミュージシャンとのフォトセッションのために、再びロンドンに向かい、一気に、Tレックス、デヴィッド・ボウイとつながっていったのです。

その8、9年前までは、茨城の田舎の女子校に通っていた私が、時代の流れの中で、新しい歴史を目撃するなんて、思ってもみないことでした。いやそればかりではなく、その流れの渦に巻き込まれていた時も、そんなことを自覚することはありませんでした。あれから45年以上たった今になって、その幸運に感謝しています。


レオンのドアを開けたら、セントラルアパートの中にあるコマツフォトの「お父さん」がコーヒーカップを挙げて合図してきました。彼はジェントルマンで、日本チェス協会の会長でもあった。黒い光沢の壁面には、梅原龍三郎の複製と思われる額。(Yacco・ヤシカエレクトロ35で撮影)

山口小夜子さんと私。72,3年か。(撮影:染吾郎)

ガラスが張りめぐらされ外には朝顔の鉢が置いてあることも。白のTシャツはマドモアゼルノンノン、アクセサリーはいつも夜店で買った子供のおもちゃでした。私なりのチープシックか。60 年代後半。(撮影者:不詳)

筆者 プロフィール

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高橋 靖子(スタイリスト)

大手広告代理店勤務を経て、セントラルアパートの事務所にコピーライターとして入社。その後、日本のスタイリスト第一号に。71年、ロンドンで行われた山本寛斎ファッションショーに参加。72年、T・REXと鋤田正義氏のフォトセッションを仕掛ける。73年、デヴィッド・ボウイのツアースタイリストに。著書に『表参道のヤッコさん』

高橋靖子 BLOG フィガロジャポン

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