vol.37 『レオン』中西俊夫

ず、人生で大事なことはほとんどレオンで学んだような気がする。
夢の実現の仕方とか、何が粋で何が粋じゃないかとか、皆自由業の人だったので、どう仕事に繋げるかとかね。皆、レオンのピンク電話を事務所代わりのように使っていた。

いつもカメラマンの染(※染吾郎)とか、グラスメンズの斉藤純ちゃんとかがいて、教えるぞって感じじゃなくて自然に色んなことを教えてくれた。パリ帰りのCOZOガマさん(※村松周作)、ヒロミチ・ナカノ、斉藤純ちゃんとかカフェフロールのカフェソサエティをレオンでやってるという感じなんだろう?パリっぽいね、って感じがINだった。
実際行けば誰かいるし、話題も出たばかりの向こうの雑誌とか、イケてる髪型とか、映画とかボウイ(※デヴィッド・ボウイ)のこととか多岐に渡った。本当にカフェソサエティだったね。だって一日中たむろって、表参道の人々のファッションショーを見てるんだもの。

一度なんて上のセントラルアパートの鋤田さん(※カメラマンの鋤田正義)のとこを訪ねてきた本物のデヴィッド・ボウイを皆目撃したこともある。僕はトイレかなんか行ってて見逃したけど。

うそう。上がセントラルアパートだったというのも重要。鋤田さんの事務所、僕がお茶汲みしてた小栗壮介(※ファッションデザイナー)のアトリエ、プラスチックス(※中西俊夫が所属していたバンド)がボブ・マーレーのウェイラーズとジャムセッションを繰り広げたツトム・ヤマシタスタジオとか入っていた。

地下の原宿プラザの「赤富士」ではロンドンから直輸入のセディショナリーズを売っていた。ガマさんが「おまえら、なんでも作るけど、これはさすが出来ないだろ!」と言ってパラシュートシャツを指さしたのを覚えている。当時セディショナリーズが入ったと言っても、今みたいに並ぶわけではなかったけど、凄いインパクトだった。2CV(※ファッションブランド)をやってた小暮秀子ちゃん(※現・イラストレーターのこぐれひでこ)なんか「中西たちが履いてた足の繋がったズボンを見た時にデザイナー辞めようかと思った」と。

ょっと話は前後するが、レオンにはパリ派とロンドン派がいたと思うんだけど、グラム全盛期の頃のグラスは凄かった。ミッキー・フィン似のジュンちゃん(※桜木ジュン)、後にクールスの入るムラ(※村山一海)、サンペイちゃん(※安部賛平)たちがレオンに入ってくると派手で派手で面白かったな。皆ホソノ(※青山の靴や)特注のヒール15㎝のロンドンブーツ履いてね。もちろん僕も作りました、蛇皮革ロンドンブーツ。

僕のセツ(※セツ・モードセミナー)同級生、岩崎君(後にパーソンズ社長)も僕が「学校よりレオンのほうが面白い」って言うんで入り浸るようになり、ガマさんからレットイットロックのクリーパーズを借りてコピーし、クリームソーダのヤマちゃん(※山崎眞行)に卸してた。あいつは商才あったな。

宿の街全体がアートスクールみたなもんで、感性磨かれたり、実際に仕事に結び付けたりする場所だった。僕の最初の仕事も、編集者の砂山健さんに気に入られてペーター・佐藤師匠(※イラストレーター)に紹介されて、ビックリハウス(※パルコ出版がだしていた雑誌)の萩原さん(※初代編集長・萩原朔美)に繋がり、何やってもいい見開き連載をもらったところから始まっている。

COZOニュースペーパーもそうだ。ガマさんがレオンで、ウォーホル(※アンディ・ウォーホル)のニュースペーパー(※「Interview」誌)みたいのをやろうと言い出し、カラーコピーでやることになったのだ。当時カラーコピーは1枚100円とかしてたけどね。
COZOでテキスタイルの仕事をもらったり、伊藤病院の脇を入った路地にあった「HELP」で「スキャンダル」というロンドンポップのショップをやってた益山さんからミッキーマウスのデザインのTシャツのデザインを頼まれたけど、ディズニーから警告を受けて、大っぴらに売れなかったけど。

ヘルプでは川久保さん(※川久保玲)が初の「コムデギャルソン」のショップを開いている知る人ぞ知るみたいな感じで、ヘルプも原宿プラザもロンドンのケンジントンマーケットみたいに色んな店の集合体だった。今みたいに店がいっぱいじゃなかったけど、ビギ、マドモアゼル・ノンノン、ミルク、原宿プラザ、ヘルプ、ゴローズ、グラスくらいしかなかった(?)。皆、個性的な店で面白かった。あとは、キディランドの並びのビルに入ってたユキヒロ(※高橋幸宏)の「ブリックス」、古着やの「スタークラブ」、マーク・ボランも来たというロック喫茶「DJストーン」、本当にポツンポツンと点在してて、のどかなものだった。
竹下通りにできた輸入レコード店、「メロディハウス」も僕にとっては重要な店だった。

べるのも原宿で、よく壮介に奢ってもらった(現)コンドマニアの並びにあった手打ちラーメンの「蓬莱」、手打ちって珍しかったが味はまあまあ。ゴローズの横の路地を入った洋食の「ブル」はほぼ毎日。居酒屋「とんちゃん」、セントラルアパートの1階にあった「杉の子」、お金があれば、レオンの隣の「福禄寿飯店」。初めてボンゴレを知った「トスカーナ」。コープオリンピアに入ってたアメリカンダイナー的なハンバーガー屋さんとか。後にアメリカングラフィティが流行って50sブームが来るんだけど、クールスはオリンピアのアメリカンダイナーじゃなくて、レオンにたむろってましたね。皆、強面だけどいい人たちで、舘ひろしとは家も近くだったのでよく遊びに行ってた。クールスは凄かったな。レオンの前にダーッとハーレーを停めて、入ってくると店の雰囲気が変わっちゃうくらい。で、何をするでもなくアメリカンを飲んで音楽の話を主にしてるだけなんだけどね。ムラさんはデビューしたてのキャロルのことを「日本っぽくキレイにまとまりすぎ」と言ってたな(笑)。
作詞家の松山猛さんもよく出入りしてて、僕は彼のT・REXの「電気の武者」の訳詞に感銘を受けていたので恐る恐る声をかけさせていただいたこともある。

いたい皆、自然に顔見知りになるというオープンな場所だったね。今みたいに皆そこそこオシャレというわけじゃなく、オシャレな人は少なかったから、お互いを意識するというか、類は友を呼ぶというか、自然発生的に友達になるという、それが普通の街の喫茶店だったはずのレオンが、サロンというかカフェソサエティになってゆく過程で起こっていたことだな。
60年代は、それがヒッピーや文化人がたむろってた新宿なんだけど、新宿で「怪人20面相」をやってたヤマちゃんも、これからは原宿だ!っていうので、原宿に「クリームソーダ」をオープンし、飲み食いのできる「シンガポールナイト」までオープンさせた。時代の潮流は、六本木でもなく、やっぱり原宿だったんだよね。

オンが閉店する80年代半ばの頃、僕はメロン(※中西俊夫が所属したバンド)で「ピテカントロプス」(※原宿と千駄ヶ谷の間にあったクラブ)でライブをやったり、海外に行ってたりでご無沙汰しちゃったけど、若い頃、レオンで過ごした時間はかけがえのないものだったと、ここに特筆しておこう。

追記:カフェドロペよりレオンのほうが利用度が高かったのは、やはり日本人にはヨーロッパのエスプレッソより、あのレオンのコーヒーの味と香りだったのでは?僕はいつもアメリカンでした。トーストにはお世話になった。レオンは、おかわり自由なところもポイント高かった。ハジメ(※立花ハジメ。プラスチックスのメンバー)は、「それはオレたちだったからだろう」と言うが、あれは万人に向けてのサービスだったと思う。とはいえ、三杯くらいがたしなみだったけど。記憶を美化しているのかな?もう一度、飲んでみたいものだ。


– プラスチックス(Plastics)-

■ 結成40年を迎えた2016年春、プラスチックスが再結成された。全てのアルバムがデラックスエディションで再発され、久々のライブも開催された。それを記念して、活動のメインとなった76~81年の貴重な写真や資料、記録、映像を軸にした記念書籍を発売。■ PLASTICS 2016/01/11 HBC(ライブ当時の写真)

– 中西俊夫自伝 –

レオン店内(撮影:染吾郎)

レオン前の舘ひろし(撮影:染吾郎)

デヴィッド・ボウイ初来日公演の客席に

親しくしていた山口小夜子と

筆者 プロフィール

中西俊夫(ミュージシャン・音楽プロデューサー、イラストレーター)

1956年1月13日、東京広尾生まれ。1976年、立花ハジメらとともにテクノポップバンド「プラスチックス」を結成。1980年、「Wekcome Plasteics」にてアルバムデビュー。アメリカ、ヨーロッパツアーを3度に渡って敢行。世界的評価を得る。1981年、ニューウェイブ・ファンクバンド「MELON」結成。1988年、高木完、藤原ヒロシらとクラブミュージック専門レーベル「MAJOR FORCE」を設立。1992年、ロンドンに移住。2003年、帰国後、野宮真貴らとユニット「PLASTIC SEX」を結成。2013年、自伝『プラスチックスの上昇と下降、そしてメロンの理力・中西俊夫自伝』を出版。2016年9月、食道ガンと宣告されたことをSNSで公表。

鋤田正義さん(カメラマン)から贈られたデヴィッド・ボウイ公演の写真を病室に飾って。

病室で描いた絵。


『いつも今の滝の心。
不安な未来、過去の後悔は考えない。
病院で描いた絵』
by 中西俊夫

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