vol.44 『パルスビート』白川 良行

1968年夏、営団地下鉄銀座線「神宮前」駅の近くに、ディスコ『パルスビート』は誕生した。
(現在の地下鉄「表参道」駅の当時の名称は「神宮前」だった。1972年、地下鉄千代田線の開通に伴い、「神宮前」の名称は「明治神宮前」駅に引き継ぎ、「神宮前」駅は「表参道」という駅名に変わった。)

建築家の故伊丹潤氏が、同じ建築家の古谷誠章氏との対談「建築は大地から生まれるものだ―INAX REPORT」の中で次のように語っている。
「黒川(紀章)さんが赤坂でタイムというディスコテークをやられていたんです。それに対して僕はパルスビートというディスコテークのインテリアをデザインしました。. . .」  しかし、デザインだけを手掛けたのではなくオ-ナー自身だった。

店当時、従業員は7名。マネージャーの塙、フロアがリーダー核のジュン(米地)、ダッコ(臼井)、マンボ(川村)、森下の4名。厨房に平井、そして受付には伊丹氏の恩師だという年配の男性がいた。その中の一人ダッコが私をDJに誘って来た。彼とは新宿の「ジ・アザー」でよく顔を合わせていた。

1968年4月に大学に入学した私は入学式で彼と出会うこととなる。「やぁ」「やぁ」というようなやり取りから付き合いが始まった。パルスビート開店一か月後くらいだったか、9月にダッコから「青山にディスコが出来たがDJをやらないか」と誘って来たのだ。踊ることも好きだったが、黒い音を皆に聴かせ躍らせたいという欲求から二つ返事で引き受けた。

開店当初はそんなに流行っていたわけではなかった。お客が少なかったことが幸いしたのか。私が回す音にフロアの真ん中ではジュン、ダッコ、マンボ、森下が踊り、従業員自身が楽しんでいた。お客もそんな光景を見ることで最新の踊り、ステップを覚えていった。ここで作られたステップもあった。私自身もお客が少ないことを良いことに、FEN放送のDJのように回す曲の簡単な説明やら、思い入れを英単語を並べた程度のぎこちない英語で曲を繋げていた。そんなお気楽なムードから出発していた。

守藹(エモリ・アイ)氏の『ストリートダンサーズ列伝 黒く踊れ!』で「青山学院が近い交差点の側にあった『パルスビート』。スチール板を使ったインテリアが格好良く、DJブースが店で一番目立つ位置にあり最新のソウルを聴かせてくれていた。ここは、ちょっと不良っぽいところもあったが、従業員の多くがダンス上手で踊り甲斐もある。この頃の東京ではいちばんディスコらしい店と言えた」と紹介している。
「ちょっと不良っぽいところもあったが、」とあるがちょっとどころではなかった。週末は必ずいざこざが起こる。それも従業員が率先して起こしていた。常連客の中にもちょっと不良っぽい連中が多かった。そんなやんちゃな若者が大勢集まっていたので揉め事がおこるのは必然と言っても過言ではなかった。

フロアの中央が円形のターンテーブルになっていて回転するように作られていた。そこで4人が等間隔に位置し踊っていた。それはショーのようなものでお客はそこには入り込むことなど出来なかった。ステップを披露する時は回転を止めて息を合わせ縦横無人に動きまわっていた。ある程度踊って疲れると4名はそこから離れお客をフロアに招いて躍らせていた。今考えれば従業員の何とも身勝手なおもてなしだった。しかし、そうした雰囲気が自由さを与えていたのか、うわさが広がり徐々にお客が増えてきた。

自身、「ジ・アザー」「ゲット」など新宿で出入りしていたディスコで知り合った仲間に声をかけ集客につとめた。モデルの卵、横田基地のブラザーも大勢来てくれた。五十嵐ジュン(現在、中村雅俊夫人の五十嵐淳子)や、またディスコ仲間だったゴールデン・ハーフのメンバー・高村ルナも友達を連れてきてくれた。目立つ存在の女性が来れば、自然と男どもも集まって来る。

ブラザーはアメリカ本国で流行っている最先端の音を運んできてくれた。「よし(私のニックネーム)、これを回してくれ。最高だぜ」。ジョニー・テイラーの「フーズ・メイキング・ラブ」だった。その他、都内でもいち早く本国で流行っている音が届けられていたので、R&Bファンにはたまらなかった。お客にとっては踊りばかりでなく、そうした最新の音が聴かれることも魅力だった。

お客が集まってくれば、当然当局からも注目された。風営法の許可を得ていないので、お客を躍らせるのは違法となる。二週間に一度くらい定期的に見回りに来た。一階の受付には床にボタンが設置されていた。そのボタンを踏めば地下のフロアの照明が明るくなる仕掛けになっていた。「来たぞ。踊り、やめぇ~」とばかりにお客に席に戻るよう促す。DJの私はすぐさまスローな曲に切り替える。明るい中でチークを踊るお客もいない。その時にはライチャス・ブラザースの「アンチェインド・メロディー」を流すのが常だった。

1969年に入りパルスビートの知名度は高まってきた。芸能人を初め有名人も通い始めた。夏過ぎに私はパルスビートを去ることにした。それは大学でのクラブ活動も影響していたが、私の後を継ぎたいという者が出てきた。彼はピンキーと名のり、後にラジオのパーソナリティーにもなった男だ。秋頃だったか、その者にバトンタッチした。
その後、フロアにはVIPルームが作られ、DJブースも螺旋階段の上に設置され、照明も派手になり豪華な雰囲気に変わって行った。VIPルームには勝新太郎氏の姿もあった。

浅田次郎氏が『霞町物語』でパルスビートを舞台に青春の思い出を書き綴っている。文庫化にあたって、その「あとがき」に1970年代にDJをつとめた石田亨(DJ TOHRU)氏が当時の様子を書いている。気に入らない曲が流れるとDJ目がけて靴を投げ飛ばしていた男について書かれている。それがジュンだ。
そのジュンも40代で肝臓を患い亡くなっている。その前にダッコは30代、仕事、恋愛で悩み自ら命を絶っている。マンボは今では連絡も取れず、どうしているのか。今では平穏に過ごしているのは森下と私だけ。
来年、開店から50年を迎える。私にとってはいつまでも忘れることが出来ない良い思い出である。

パルスビートの看板とマッチ

当時のお気に入りミュージシャン

Johnnie Taylor / Righteous Brothers

Gladys Knight and The Pips / Temptations

Stevie Wonder

-昭和元禄 アングラポップ さんのTweetから-

筆者 プロフィール

白川良行 しらかわ よしゆき
(真宗大谷派源隆寺住職)

1950年1月27日に台東区浅草北清島町(現・東上野6丁目)の浄土真宗の寺に次男として生まれる。
二つ上の兄の影響で小学生の頃から洋楽に親しみ、中学生の時、ボーイスカウトのキャンプ地でトランジスタ・ラジオから流れてきたシュープリームス、スティーヴィー・ワンダーなどのR&Bにショックを受け、それ以来、黒い音ばかりを追っかけている。
兄が寺を継がないことを決めたことにより、現在は住職として法務に励んでいる傍ら、「老人によるソウルイベント・アルツハイマー」(新宿カブキラウンジで偶数月の第三土曜日に開催)でDJの一人として末席を汚している。

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